(翻訳:ワシリー・クジメンコフ) ショー・ビジネスで成功を達するには両親、夫、恋人でもある有力なプロデューサーまたは裕福な投資家がいないと実現できないと言う広範な意見があります。しかし、星空への他の道がないという思いは、自分ができないと認めて夢を諦めることです。これは弱い者の道です。私たちの「魂と仕事」セクションのヒロインの才能を持った若いシンガーのKatrinは、そのような者ではありません。彼女は、毎日の徹底した仕事、自分の目的と内面的な原則に対して忠実であること、それと共同創作に伴う良い人々との協力は何のステレオタイプも打破することができます。自分で裁判して下さい。
始め
私はとても音楽的な子供として育ちました。生まれて9ヶ月のときにしゃべり始めて、ほとんど同時に歌い始めましたが、その歌は大人がいつも衝撃を受けるぐらい上手でした。しゃべることができない時期でも詩を朗読していましたが、それは表現があって歌のようではあっても、ちんぷんかんぷんな話のようでした。
最初の詩は5才の時、最初の歌は6才の時に書きました。それは、なぜか「孤独の少年」と言う曲でした。そして、両親は、私の最初の詩に感動して記録していた一方、音楽的な即興に対しては明らかに怖がっていました。母は、私の耳が発達していないと言いました。それに私はとてもがっかりしましたし、いとこは合唱団に入り、私はだめだといわれました。でも、私は諦めませんでした。音楽学校に入学することを要求し、ピアノを買ってくれるようにも要求しました。1年間の説得・交渉の後、両親は納得してくれました。
別のアパートに引越し、音楽学校を変えたとき、私は運良く、有名な子供の合唱団に入ることができました。最初の「耳が発達していない」と言う「診断」はまったくナンセンスでした。人はみんな自然に「内耳」があり、単に音声のようにそれを学習する必要があります。この面では、私たちの合唱指揮者のNatalia Ivanovna Bazhkoは教育の天才でした。私たちの合唱団はモスクワ音楽院、ラフマニノフホール、チャイコフスキーホールで演奏し、様々なコンテスト、テレビ番組に参加して優勝したことがあります。すべてが夢のようでパーフェクトでしたが、あるとき、私は独立して自分の道を歩む準備ができていると分かりました。
ソングについて
8年生のとき、私はギター・スクールに入学しました。同級生がギターを弾いていたので、私を招待してくれました。最初に和音を勉強すると、これは長く真剣に続けられると実感しました。曲は自然に流れ始めました。そのとき初めて恋に落ちました。微妙ですが、対象は私の音楽の先生でした(私には先生のことが好きになるという馬鹿な癖があります!)。でも、自分の感情を告白する勇気が足りなかったので、紙に自分の感情を表現し始めました。そのときこそ、私の曲の多くが生まれました。
私は未だに自分の創作プロセスがどう流れているか、説明できません。インスピレーションは、どこでも引き起こすことができます。「最後の挨拶としてこれを言います」という曲はお風呂に入っていたときに作り、地下鉄の中で多くの曲と詩が作られるので、いつもノートとペンを持参し、何も持っていないときには携帯電話のボイスレコーダーあるいは手元にあるものを使って、録音するかメモを取ります。
最初のアルバムについて
2005年に、「海風」という私のデビューアルバムが発売されました。録音は、音楽院の指揮者でありショー・ビジネス業界の多くの人を知っていた、私の姉の夫がサポートしてくれました。彼は、自分の友達が働いていたゴーリキー名称スタジオに私を送り、そこで私たちの全仕事プロセスが流れました。両親は、私のプロジェクトについて何も知りませんでした。彼らがいつも懐疑的でしたので、音楽に関係があるものを厳重に秘密にして守ることを学んでいました。商売的な利益についてはそのとき何も思っていませんでした、それに、アルバムは普通にラジオで流れている音楽よりもとてもナイーブな、軽いもので、おそらく子供用の映画のサウンド・トラックみたいなものでした。
それでも私は自分の聴衆、それから本当に私の作品を鑑賞できる人々を見つけました。CDは、インターネットや小さい店舗で良く売れていました。一年後、「Gnezdo Gluharya」という伝説の吟遊詩人カフェで私の最初のコンサートが行われました。私には一切プロデューサーがおらず、人生の中でそれは自分で突破するしかなかったので、大きな成果でした。
コンテストについて
ペレスラブリ市の著者ソングコンテスト「個性の部」で優勝したときにまず何より驚いたことは、公正なコンテストがあることでした。審査委員会に真の著者ソングの恩師がいて、未だに、どうして最初の和音から彼らを悩殺できたか分かりません。私は多くの激励の言葉を言われましたが、一番好感を持ったのは、予選で一度しか私の「Berendeevo王国」曲を聴いていない観客がどこかで歌詞を見つけて最後のコンサートに私と一緒にその曲を歌っていたことです。私は、花をもらった唯一の参加者でした。そのときに、自分の聴衆と舞台のない自分を想像できないということが明らかに分かりました。
私の音楽キャリアの次の段階は、ダンス音楽のシングル「パリの風」の録音でした。そのシングルは、ロシアの国民「Interslava」賞の中の「Interzvezda」コンテストで優勝しました。それはインターネット・コンテストで、審査委員会として聴衆自身が投票したので、この優勝は特に喜ばしく思っています。
去年、「Putyovka k zvyozdam」国際ヴォーカルコンテストで運を試すことにしました。私は自分をヴォーカルと思ったことはなく、作詞家・音楽家として位置づけているが、賞状と「黄金のマイク」のカップを与えられて非常に喜んでいました。
新プロジェクトについて
もちろん、私にとって新しいポップ音楽ジャンルでの成功によって、私は新しいポップ・アルバムを作ろうと思うようになりました。しかし、私はロシアのポップ音楽はあまり好きではないので、何か根本的に新しく代わりとなる何かを作りたかったのです。私をふるいたたせたのはロシアだけでなく欧米市場を征服したグループ「タトゥー」、それから心優しくロマンチックな歌手Maksimでした。
それ以外に、私の新しい音楽のスタイルに影響を与えたのは、私が日本全体に関心があったこと(最近、東京へ行く夢が叶った)と、日本の音楽が好きであることでした。ここでは私の音楽の目標となったのはJ-Popで活動している歌手、下川みくにと浜崎あゆみでした。このように、私の日本の音楽、漫画、アニメへの関心は、ロシアのステージに根本的に新しい、「漫画・ポップ」と言うジャンルを生み出しました。
漫画・ポップは、ポップ音楽と漫画スタイルを合わせたものであって、その二つは簡単に覚えられる曲やテキストと漫画アニメーションの活力とや舞台性を利用して功利的にお互いに補完しています。ロシアには漫画・グループが驚くほど少なく、それは大体ロック・グループで、漫画・ポップ音楽はほとんどないので、このジャンルにおいて私のことは、間違いなくパイオニアと呼ぶことができます。
創作予定について
現在、私の局「月の白い花」のためにアニメ・ビデオが作られています。私は幸いにも、このジャンルでビデオを作っているロシアの最大の「Across」クリップ・メーカー協会と協力しています。アルバムの録音に関しては、私が「Gala Records」を選択し、この宝くじの幸運なチケットに関して運命に感謝しています。その前に異なるスタジオで録音してもらったことがありますが、これほどプロ意識をもち、アーティストに対して暖かい、誠実な態度はどこでも見たことがありません!
今、私たちは同じ名前を持ったアルバムのためにシングル「モイ・メートル」を録音しています。このシングルは近いうちに発売されると期待しています。それと、予定の中には英語のアルバムの録音があり、この意味では「Katrin」プロジェクトは自身を持って国際規範のプロジェクトと呼ぶことができます。ちなみに、著者以外に誰も従来の意味を伝えることができないので、自分の曲の多くは私が自分で訳しました!
私は、明日のために何かを推測することが好きではありません。言うことはできるのはただ1つ:良い音楽を作り、最近オープンしたオフィシャル・サイトで世界に自分の創作、感情と気持ちを提供できて幸せです。
愛を込めて、あなた方のKatrinです。